9時からゴディバで

[ショートショート] 9時からゴディバ

 

 隆は早足で駅から会社に急ぎながら、地下街の一角にあるゴディバの店舗にちらりと目を向けた。最近は仕事に追われて、ゴディバのショコリキサーも飲んでない。昼休みに抜けて来ることは不可能ではないが、おそらく混んでいるだろう。カポーティの小説の中のホリー・ゴライトリーは、スターになってディファニーで朝食を食べる日を夢想したが、隆の夢想は平日朝からゆっくりと、ゴディバに入り浸れるような人生である。そう、9時からゴディバで。実際の仕事は、9時から5時までどころではない。セブン・イレブンを超える日さえある。

 ゴディバが「義理チョコをやめよう」と言ってくれたおかげで、隆はバレンタインデーにも、部下のOLたちから義理チョコの一つももらえなくなった。そのためにお返しも一つもしなくて済むようになった。ありがたいことである。

 9時からゴディバに行けば、その名前の由来となったゴダイヴァ夫人(夫であるマーシア伯レオフリックの圧政を諫めるために、コヴェントリーを端から端まで全裸で馬に乗って駆けたと言われる)のように、裸の女性が馬に乗って迎えに来てくれるのではなかろうか。銀座から新橋まで馬に乗って駈け抜けたらさぞ楽しかろう。周囲の民衆もチョコレートの雨あられを投げて祝福してくれるだろう。

 しかしそんな隆の夢想も、書類の山の前では雲散霧消するのである。

 

 薫の理想は平日朝からゆっくりと、ゴディバに入り浸れるような人生である。そう、9時からゴディバで。薫の育った田舎にはゴディバはなかったので、高校を出て東京に出てきた。大学に行くことも考えたが、家にはあまり経済的な余裕はなく、また、勉強も好きではなかったので、高卒で働くことを選んだ。

 東京暮らしは確かに刺激があって楽しかったが、家賃が高いことに閉口した。便利なところで風呂付だと、狭くても8万くらいはした。昼間の仕事ではどんなに働いても、20万くらいがやっとだったから、手取りの半分くらいは家賃に消えてしまうのである。

 学歴も資格もない自分が余裕のある暮らしをするには、結局自分に与えられた唯一の好条件である「若い女性」という属性を切り崩すしか方法はなさそうだった。薫は昼の仕事に加えてまずキャバクラの水商売に入り、そこが水に合わないとなると、あっさり風俗嬢となった。

 今薫は、夜の9時から、ゴダイヴァ夫人のように、裸で木馬に乗っている。残念ながら木馬は自分では動けず、街を駆け抜けることはないので、隆がどれだけ待っても、裸の女性が馬に乗って迎えに来てくれることはなかった。