ネコとネズミと帽子

 

 

 ネコがネコ用生成AIのCatGPTに話しかけていた。

ネコ「なあ、どこに行ったらネズミが取れるかな」

CatGPT「ねらい目はこの場所です」

ネコ「これはどこだ?」

CatGPT「通りの向こうの駐車場の側溝です」

ネコ「そうか、ありがとう」

 

 一方そのころ、ネズミも、ネズミ用生成AIのRatGPTに話しかけていた。

ネズミ「ネコに捕まることが怖いんだが、どこに逃げたらいいだろう」

RatGPT「おそらくCatGPTは、ネズミがこの場所を通ると予想するはずです。ネコはそれを鵜呑みにしますから、この場所は避けた方が賢明です」

ネズミ「そうか、ありがとうRatGPT」

 

 ネコは一日中、CatGPTの示した場所で待っていましたが、ネズミは現れません。待ちくたびれてもう一度、CatGPTに尋ねました。

ネコ「見つからないなあ」

CatGPT「おそらくRatGPTの入れ知恵でしょう。ここを避けるべきだと教えたんだと思います」

ネコ「じゃあどこにいるのかな」

CatGPT「うーん。逃げてるんでしょうね。ランダムに歩き回れば、見つかることもありますよ」

ネコ「頼りないなあ」

 それでもネコはCatGPTに教えられた通り、いろんな場所を歩き回った。するとネズミがいるではないか。

ネコ「よし、見つけた」

 ネコはネズミを追いかける。気づいたネズミはもちろん逃げる。トムとジェリーさながらの追いかけっこ。とうとうネコがネズミに追いついた瞬間、大きな帽子が落ちてきて、二人は捕まってしまった。

帽子「おお、やっぱりHatGPTは賢いな。おかげでネズミとネコをいっぺんに捕まえることができた」

 そして帽子は、ネズミとネコをむしゃむしゃと食べましたとさ。

ゴミ屋敷の資源回収

 

 

はじめに

 ゴミ屋敷が社会問題化して既に久しい。

 ゴミ屋敷の何が悪いのか、多くの人には自明であろうが、改めて確認しておく。まずは美観であろう。ゴミ屋敷は外から見ても「ゴミ屋敷」であることが多くの場合露わとなっており、都市・村落の景観を損ねることはなはだしい。近隣が協力して美しい街並みを築いても、ゴミ屋敷が一つあるだけで台無しとなる。「こちらから、ベッピンさん、ベッピンさん、一人飛ばしてベッピンさん」というギャグがあるが、「美しい家、美しい家、一軒飛ばして美しい家」といった具合である。昔のトウモロコシには時々、黒い粒が混じっていたりしたが、そんな感じである。ピアノの鍵盤の中に、一つだけ音の出ない鍵盤が混じっている、そんな感じである。

 それだけにとどまらない。ゴミ屋敷からは多くの場合、悪臭が放たれている。硫黄臭が噴出して「黄色い虹」を描いていることさえある。ゴミの中には生ゴミ、食べかけの食品や腐った野菜が混じっていたり、果ては排泄物が混じっていたりするからだ。先ほどの比喩で言えば、トウモロコシの粒の中に一つだけ悪臭を放つ粒が混じっていたり、ハーモニカの孔の中に一つだけ悪臭を放つ孔が混じっているようなものである。

 さらに住人の問題がある。ゴミ屋敷の住人は、体を病んだり、心を病んだりしている場合が圧倒的に多い。逆に言えば、心か体が病んでいなければ、家がゴミ屋敷になることはないだろう。よく言われるのが「セルフ・ネグレクト」、つまり、自分で自分の世話をするのを放棄した状態である。そうした人々を助け出すのも重要な課題である。

 

  • ゴミ屋敷をいかに見つけるか

 ゴミ屋敷を見つけるのは一般にはそれほど難しくはない。近隣の人々も大抵それに気が付いている。

 しかし全てのゴミ屋敷が見つけやすいわけではない。例えばマンションの高層階で、高度にプライバシーが確保された住居の中がゴミ屋敷になっている場合、外観からは分からず、また、臭いがさほど出ていない場合、簡単には見つけにくい。

 その対策としてドローンの活用が考えられる。高層階住居各戸のベランダから中を撮影すれば、そこがゴミ屋敷と化しているかどうか概ね判断できる。もちろん、カーテンなりが完全に閉められている場合には困難ではあるが、ゴミ屋敷の場合にはそこまで遮蔽が完全でない場合がほとんどである。

 低層階の場合には人手を使って調べ、高層階はドローンというのが現実的な「捜索手法」ということになるだろう。

 

 2.ゴミ屋敷からどのような資源を回収するか

 まずは金属ということになるだろうか。特に電気製品には多数の金属が含まれている。

 ゴミ屋敷を築く人の中には、元電気屋や修理工で、人並み以上に電気製品等に関する知識があり、そのためにゴミ集積場などから電気製品を持ち帰って修理をしているうちに、やがて持ち帰る方が主になってしまい、結果的に多数の電気製品がゴミ屋敷内に積みあがっている場合がある。電気製品に含まれるレアアース等を考えると、まさに宝の山である。

 例えばパソコンには金、銀、銅、白金、パラジウム、ニッケル、コバルト、リチウム、ベリリウム、セレン、マンガンガリウムゲルマニウムなどが含まれている。金は1グラムで6000円くらい、プラチナは1グラム3000円くらい、銀は安いがそれでも1グラム80円くらいにはなる。途上国のスラムのゴミ山で金属を探すより、日本のゴミ屋敷で金属を探す方がおそらくはるかに効率が高いだろう。さらに電池などの中には錆びて有毒な物質を生み出すものも含まれており、もし雨漏りなどで排水が流れ出すと、環境汚染のみならず健康被害を引き起こす可能性さえある。

ガラスが含まれている場合もある。酒瓶や醤油の瓶に加えて、割れた窓ガラスが放置されて危険な状態になっていることもあるだろう。ガラスも資源としてリサイクル可能である。

またビニールやプラスチック、ペットボトルなどが大量に積みあがっている場合も多い。現代の生活では特に、プラスチックなど石油精製製品が包装材等に大量に使われている。コンビニやスーパーのレジ袋、肉や魚のトレイ、飲料のボトル等。これもこまめに捨てるなり、リサイクルボックスに出すなりしなければ、たちまち相当の量になる。ゴミ屋敷の場合もこれがかなりの量を占めている場合がある。

衣類が多い家もある。住民が着道楽で、多数の衣類を所有していたが、それを片付けられずに放置している場合や、電気製品と同様に古着を拾ってきてしまうクセがある場合もあるだろう。新品であれば場所を取るだけで、古着業者に売ったり、途上国や被災地に支援物資として送ることもできるだろうが、着たまま洗濯せずに放置した衣類や布団、毛布、カバンなどは、汗や汚れがついたまま悪臭を放ち、捨てるか燃やすくらいしか処分法がない。しかし中には、ダイヤモンドやルビー、サファイア、真珠などでできた宝飾品(指輪、ネックレス、ブローチ、ブレスレット等)がその中に埋もれていることもあり、まさに宝探しである。

趣味や嗜好品が混じっている場合もある。例えばスポーツ用品。ゴルフクラブやテニスのラケット、スキー板やサーフボード、バスケットのゴールやバレーのネットなどである。音楽が趣味の人の場合には楽器(ピアノ、フルート、バイオリン、ビオラ、トランペット、ドラム等々)や楽譜、レコード、カセット。オーボエばかりが33本出て来たことがあり、この時はさすがに「馬鹿の一つオーボエ」という言葉が口をついて出た。絵画が趣味の人であればキャンパスや絵の具、イーゼル、画板など。他に趣味の品としては例えば碁石、将棋盤、その他のゲームボード、トランプ、けん玉などのおもちゃ。これらは保存状態が良ければ古道具屋が値段付きで回収する場合があるが、そうでなければ鉄くずや木くず、プラスチックとして材質別にリサイクルに出すことになるだろう。「シャネルの碁盤」は、マリリン・モンローのサインでもついていれば高く売れるが、将棋盤はムリだ。人形も、保存状態がよければ売れることがあるが、壊れた人形は不気味である。

食料がゴミの中に埋もれていることもあるが、多くの場合は賞味期限だけでなく消費期限がとうの昔に過ぎており、口にすると健康を害するおそれがある。もちろん住民が冷蔵庫などに管理している食品はそのままにしておくべきだが、その中でもあまりにも期日の過ぎた腐った食品などは、廃棄するか、畜産飼料にするか、肥料にするか、といったことが現実的な選択肢となる。

紙類が多くの場所を占めていることもある。読書が趣味で、大量の本や雑誌を購入し、それがいつの間にか本棚からあふれ出て、廊下へ、居室へ、食卓へ、台所へ、玄関へ、ベランダへ、果てはトイレや風呂までも。「積ん読」だったものが、「溢れ読」「崩れ読」へと変貌してゆくのである。これらを資源とするには、古本屋への売却が基本であるが、古新聞など価格が付かないような類のものは、紙資源として古紙回収業者に引き取ってもらうことになるだろう。函入りの立派な文学全集や百科事典が二束三文で、ボロボロになった一昔前のヌード付き週刊誌が高価ということもあり得る。希少性が価格に影響するからだ。「レーニン全集」なども今や読む人は零人だろう。

 市販の本や雑誌、新聞以外に、当人のメモやノートが残っている場合がある。これも時として貴重な情報資源となる。メモ類が大量の場合には人手で検証するのは困難であるので、OCRを使って読み込みAIが一次的な解釈をするということになるだろう。珍しい体験をしたとか、あるいは、自らの犯罪記録を残している場合もあるだろう。前者の場合には出版やサイトでの公開などが考えられ、後者の場合には捜査機関に連絡することで、未解決事件の真相が明らかとなったり、冤罪の人間が釈放されたりすることもあるだろう。メモだけでなく、アナログ写真のアルバムが大量に出土することもある。これも、過去の風俗等を知るのに貴重なことがある。

 

3.住人との関係

 ゴミ屋敷の主がまだ生きている場合には、その当人から話を聞くという形で、有益な教訓が得られる場合がある。なぜ家がゴミ屋敷になったのか、それまでの経緯はどうであったのか、といったことだ。但し、話があまりにも長く、かつ薄く、それ以上の有益な情報が期待できない場合には、人型アンドロイドを置いて対話をさせ、人間は撤収することが推奨される。費消される人的資源の方が大きいからである。また、人の記憶は上書きされやすくあてにならないことにも注意すべきであり、事実との照合が望ましい。

 ゴミ屋敷の住人は、男性の独り暮らしが多く、42%を占める。しかし、女性の独居も33%おり、35%は複数人で暮らしている。複数人で暮らしている場合、家族(夫婦、親子、兄弟など)が8割以上を占めているが、家族でない場合も2割弱程度存在する。家族でない場合は、友人同士、先生と生徒、漫才コンビ新興宗教の教祖と信徒、といったパターンがある。最後者の場合、数十人がゴミ屋敷の中で息をひそめて暮らしていた事例がある。だが祭壇のロウソクの火が引火して火災になり発覚した。

 痛々しい事例としては、ゴミ屋敷の中から住んでいた人の遺体が見つかる場合がある。遺体は一体の場合がほとんどだが、中には夫婦や親子、兄弟などが両方とも亡くなっていることもある。そして多くの場合、死亡から相当な時間が経過しているため、残念ながら臓器や角膜の再利用には適さない。したがって、資源として回収することはできず、荼毘にして埋葬ということになる。

遺体の死亡理由が他殺や自殺であった物件は告知義務が発生するが、元は「ゴミ屋敷だった」というだけでは告知義務は発生しない。土地も家も生まれ変わり、ゴミ屋敷の資源回収は完成したと言えるだろう。

 

4.おわりに

 では他殺や自殺のあった事故物件はどうするか。一つの成功事例として、そのまま「ゴミ屋敷型お化け屋敷」というアトラクションにする方法がある。開店一年目は物珍しさで年間利用客が10万人に達した。しかし二年目には6万人まで減少。なんらかのテコ入れが必要な時期に来ている。

 

 

 

 

[book]日本の映画産業を殺すクールジャパンマネー

 

ヒロ・マスダ『日本の映画産業を殺すクールジャパンマネー』光文社新書を読みました。

最近は下火になったが、ひところ「クールジャパン」という言葉特に政府から盛んに発信され、日本が「誇る」文化を外国に売り込もうと声高に喧伝された。しかしはかばかしい成果を挙げたという話は聞かないまま、流行語としてはとうに旬を過ぎてしまった。その陰で、税金の垂れ流しあるいは関係者が甘い蜜をすするといったことが行われてきた。その代表例が、本書で詳述される「株式会社ANEW」だろう。

 「株式会社ANEW」とは、「All Nippon Entertainment Works」を縮めた略語で、日本の物語をハリウッドで映画化することを手助けするための、官製映画会社である。経済産業省商務情報政策局文化情報関連産業課課長(当時)の伊吹英明氏(自民党の有力代議士である伊吹文明氏の息子)を中心となって動き、産業革新機構が60億円を出資して、2011年10月に設立された。七本の「企画」が発表されたものの、結局一本も映画化に成功することなく(脚本などの企画段階にとどまり、撮影に入ったものさえ皆無)、この企業は22億円の損失を出して2017年に「ただ同然」で身売りされることになる。損金の多くは、関係者の報酬に消えたと見られる。トップに据えられたサンフォード・R・クライマン氏だけで年額数千万円にものぼる給与を得ていた。そればかりか、ANEWの米国拠点である「ANEW USA LLC」は、「クライマン氏の個人会社、を日本の公的資金で丸抱え」(p.141)したようなもので、クライマン氏は「映画プロデューサーが本来負うべき経済的リスクを何ら負うことなく、映画が利益を生んだ時にはそこからもシェアを受け取る「二重取り」ができる」(p.143)という、絶好の立場が与えられていたという。これでは日本はただのカモではないか?

 ANEWの設立意図がそもそもおかしいと著者は指摘する。もしANEWが関わった映画の企画が成功しても、それで利益を得られるのはいわゆる「アバブ・ザ・ライン」(監督や脚本家、スター)だけで、「ビロー・ザ・ライン」(撮影、照明、衣装など映画産業で働く労働者)には何ら利益がないのだ。しかし支援すべきは後者ではないのか?ANEWがハリウッドの監督や脚本家に報酬を支払っても、日本の映画産業に資することはない。そればかりか、2012年、TIFFCOM(東京国際映画祭に付随する見本市)で行われたセミナーで、ジャパン・フィルムコミッション副理事長(後に理事長)の田中まこ氏は、日本でのロケの利点として「週末・深夜・長時間労働に対応し、残業代がかからず、エキストラを無償で用意できる場合がある」(p.204)としている。つまり、日本で労働者を安く買い叩けると世界に向けて宣伝しているのである。これでは日本の映画産業で働く人々の待遇が良くなるわけはなく、また、上部がそのような問題意識を全く持ち合わせていないことも分かる。労働者の待遇改善に向かおうとする外国の映画産業とは真逆の動きをしている。

 著者はANEWに関して経産省に情報開示を迫るが、経産省側は疚しいためかひたすら逃げる。あるいは、初めから「文書を作らない」。日本の情報公開制度における問題点が、そのままここでも露わになっている。総括もおざなりだ。

 経産省にはそれなりに優秀な学生が就職しているはずであるが、なぜこのような「無能の極み」のような政策が実行されてしまうのだろうか?長時間労働をしているうちに疲弊してしまうのだろうか?それとも政治家や関係者の利害を中心に動いているうちに政策がねじ曲げられてゆくのだろうか?本書を読む限りにおいて、経産省という役所は文化を扱うのは不適としか言いようがない。

平田知久『ネットカフェの社会学』を読みました。

平田知久『ネットカフェの社会学慶応義塾大学出版会、2019年を読みました。

 

 著者は社会情報学会の中でも「期待の若手」だったが、現在ではすっかり中堅の研究者となり、おそらく学界を背負って立つことになるだろう。学会でも何度かご一緒したが、その鋭い意見には敬服するばかりだった。
 さて本書はそんな平田氏が京都大学に提出した博士論文。タイトルにもあるように、ネットカフェがテーマだが、特に日本のそれと東・東南アジア諸国のそれとを比較して各国での特徴を描き出したところに眼目がある。日本のネットカフェを見ているだけでは、それがどれだけ他国と違う発展形態を遂げたのか分からない。ネットカフェという小さな窓から、その国の姿が垣間見えるのである。
 日本のネットカフェの特徴は、その「個別ブース」性と、「静寂」にある。なぜそうなのか。著者の見立てでは、他人のくつろぎを邪魔しないように、他人への干渉を避けるという配慮が、日本では行き届いているということになる。
 それに対して、著者が行ったアジア諸国のネットカフェは、多かれ少なかれ喧噪の場である。第4章で紹介されるソウルのネットカフェは友人と連れ立って遊ぶ場所という性格があり「うるさい」。第5章で紹介される台北のカフェは、カナダビザに取得をアシストするという、「ケア」の側面を持ったものがある。バンコクでは、家にパソコンを持たない子どもたちが、ネットを使わなくてはできない宿題をするために、ネットカフェに集っている(第6章)。それだけではなく、「バーガール」たちが、お客をつなぎとめるためのラブレター(より直截的な言い方をすれば「セックス・レター」)を書くために、ネットカフェが使われてもいるのだ。
 著者による「半構造化型インタビュー」は堅実なものだが、時として失敗することも正直に書かれている。北京での取材で、質問の途中ら、日本の文化に興味を持つインフォーマントたちに、逆に質問責めに遭ってそれ以上の調査を断念している(p.203)。彼らは決して裕福ではないのに、『週刊少年ジャンプ』の簡体字版がネットより早く読めるなら一冊30CNYまで払う、ネットより早く日本の劇場版アニメを中国で観ることができるなら150CNY出してでも行く、等と語るのだ。中国についてはその広大さと問題の複雑さから、著者は単純な結論を留保しているように見えるが、ここに描かれているのもまさに中国の一面だろう。
 個人が自由にネット接続できるスマホの時代には、ネットカフェが徐々に役割を終えようとしているとしても、「ネットカフェにおける歓待の実践とその応用は、共にあることの現代的な困難がオンライン上に散見されるように映る現代においてこそ、希求されていると考えることもできるだろう」と著者は語る。地球全体が一足飛びに理想郷になることはない以上、著者のこのような探求は今後も続いていくだろう。本書の元になった研究自体は2010年前後のものであるので、多少はここに描かれた事実も変化はしているだろうが、その時期の貴重な定点観測として価値を失わないだろうと私は考える。

『アベノミクスによろしく』『国家の統計破壊』を読みました。

明石順平『アベノミクスによろしく』集英社新書、2017年、同『国家の統計破壊』集英社新書、2019年を読みました。

 

 著者の明石氏は労働関係を専門とする弁護士。この2冊を読む限り、経済統計の扱いもプロ裸足と言える。

 前者は「太郎」と「モノシリン」の対話形式でアベノミクスを再検討するもの。アベノミクスは、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」を3本の柱とする経済政策で、ちょっと見には好いことを言っているように聞こえるが、実態は酷い失敗であると著者は告発する。

 「大胆な金融政策」を行うと皆が物価の上昇を期待するので、「貸し出しが増えて市中にお金が出回り」「消費も伸びて」景気が良くなると、アベノミクスでは主張した。しかし実際には資金需要がないためお金は市中に出回らず、物価は上昇したがそれは好景気によるものではなく増税と円安のためであったと、明石氏はデータから結論付ける。

 名目の経済成長率から物価上昇を差し引いた実質経済成長率を見ると、民主党政権の3年間(2009年から2012年)と比べて、第二次安倍政権の最初の三年間(2012年から2015円)は、三分の一しか成長していないことが分かるのだ(第2章)。賃金は伸びずに物価が上昇したため、国内の実質消費は戦後最悪の下落幅を記録する(第3章)。

 こうした不都合な真実を隠蔽するために、安倍政権は統計の改竄という禁じ手に手を染める。まず①実質GDPの基準年を2005年から2011年に変更し、②準拠する国際基準を「1993SNA」から「2008SNA」に変えた。②によって研究開発費などが加算されるが、さらに③「各種の概念・定義の変更」「推計方法の変更」(著者は「その他もろもろ」と呼んでいる)によって、さらなる嵩上げが行われ、しかも④1994年に遡ってGDPを全面改訂するという「歴史の改竄」まで行われている。これによって、2015年度の実質GDPは500.6兆円から532.2兆円へと大きく膨らんだ。著者の分析では、②による嵩上げ額も1994年度から2015年度まで緩やかに上昇しているが、③による嵩上げ額はさらに露骨で、2012年度までは2回の例外を除きマイナス効果となっているのが、第二次安倍政権では2013年度4兆円、2014年度5.3兆円、2015年度7.5兆円と、まさに安倍政権での「GDP水増し」を狙って行われたものであることが分かる(第4章)。

 第5章はGDP以外のアベノミクスの「成果」の検証だが、改善されたとされる雇用は実は「生産年齢の人口」や「高齢化」が主要因で安倍政権のおかげではなく、公的資金を株に投入して株価を釣り上げているものの暴落のリスクは大きく、円安誘導で潤ったはずの製造業でさえ実質賃金が低下したといった事実が示される。

 さらの第6章は著者の専門の労働者の生活に関わる事柄だが、成長戦略として提出された「残業代ゼロ法案」(「高度プロフェッショナル制度の導入」「企画業務型裁量性労働の拡大」)が、労働者を疲弊させ健康を損ねる危険があると指摘する。

 ここまではおそらく、読めば全員が納得する事柄であろうが、第7章については議論が残るところであろう。日銀による国債の大量買い付けによって維持されている現在の財政だが、いつか国債バブルがはじけ、激しいインフレが起きる可能性が指摘される。確かにこれまでの経済学ではこの考え方が主流であったろうが、財政赤字こそが国家に資金を提供する源泉であると主張するMMT(現代貨幣理論)を初め現在の経済学では、不景気の際にはむしろ財政を拡大すべきであるし、財・サービスへの需要は弱くインフレの危険がほぼないとする考え方も出ている。これらは人々の心理や考え方にも影響を受けるので、机上の理論だけで決着のつく問題ではないだろうが、著者は次著の『データが語る日本財政の未来』(集英社新書、2018年)では、財政に関する楽観論を戒めている。

 その次に出した本が後者、『国家の統計破壊』である。厚労省による基幹統計「毎月勤労統計」の2018年6月の速報値で、名目賃金が21年ぶりに3.6%の高い伸びと報道されたが、実は①「サンプルの一部変更」、②「ベンチマークの更新」、によって、実際より高く出るように操作されたものだった。①のサンプルの一部変更とは調査対象企業の標本の入れ替えだが、②のベンチマークの変更とは、従業員5-29人の中小企業の割合を、2009年経済センサスにおける43.9%から2014年の41,1%に変えたというもの。

 さらに、2004年から「全数調査であるはずの「従業員500人以上の企業」について、実は約3分の1しか調査していなかった」ことも判明した。この「復元処理」を2018年6月に行ったことも、名目賃金が上振れした要因であったことを、厚生労働省は隠していた。同月の賃金上昇2086円を要因分解すると、①が337円、②が967円、③が782円であったと、厚労省は修正した。要は改竄によって高い数値が出ていただけだった。しかも物価が上昇しているため、それでも実質賃金はほとんど上がっていない。安倍総理は「ニューカマー効果」(新しく労働市場に新しく参入する人がいると、それを含めた賃金平均値は下がる)を強調しているが、それが真っ赤なウソであることを著者は暴いている。3つの要因を考慮し、サンプルが共通の企業だけで算出する「参考値」での2018年実質賃金伸び率を厚労省はかたくなに公表しなかったが、著者の試算ではマイナス0.3%となった。厚労省はこの問題に関して「検討会」を設置し、著者も呼ばれて出席したが、2019年7月の選挙までこの問題を浮上させずに「やってる感」を出すだけの時間稼ぎであったと、著者は推測している。

 さらに第4章では「日雇外し」すなわち、「常用労働者」の定義から「臨時又は日雇労働者で18日以上雇われていた者」を外すことで、従業員5-29人の事業所の割合が減ったことが根本的な原因であることを著者は見抜くのである。この定義変更は、おそらく誰にも気づかれないように、細かな字で書かれていただけだった。なおかつ、常用雇用指数については遡及処理を行っている。そうしないと常用雇用者が減ったことになってしまうからである。要は都合のいいように数字を並べているのだ。

 第5章「誰が数字をいじらせたのか」では、統計改竄に関する政治家の関与を探っている。まず菅官房長官が、雇用統計の数字が落ちることについて、「問題意識を伝えた」とのボカした言い方だが、中江秘書官を通じて官僚に意見したことを認めている。そこで厚労省は、阿部正浩・中央大学教授を座長に「毎月勤労に統計の改善に関する委員会」を立ち上げたのだが、驚くべきことにこの委員会の反対意見を聞かずに、麻生財務相が「鶴の一声」で最終的な判断を行っているのである。厚労省は統計法に違反する事柄を自ら行っておき、統計委員会の西村委員長が国会に出てこないよう、「多忙のため国会審議に協力しない」旨のニセ文書を作って野党側に撒いていた。公文書偽造と言う他ない。

 第6章は、前者『アベノミクスによろしく』と近い内容をさらに更新したもので、「その他」を水増しする「ソノタノミクス」(著者の造語)によっていかにGDPや「家計最終消費支出」の数値が嵩上げされているかを詳述する。著者の議論に基づいて国会で質問した階猛氏に対する茂木敏光大臣の答弁は、論点反らしで不誠実極まりない。一言でいえば、供給側の数値のウェイトを上げ、さらに家計調査の質問項目を改訂(収入の記入を個人ごとにする、口座入金による収入を書かせる、ポイントを利用した場合にはポイント使用前の支払額を書かせる)といった手段で、額を水増ししているのだ。総務省統計局の阿向泰二郎統計課長(当時)は、エンゲル係数のばったもんまで案出している。立憲民主党小川淳也議員は衆議院予算委員会で、第二次安倍政権下で行われたGDPに関する「統計の見直し」が38件にものぼることを指摘している。

 第7章では、安倍総理の自慢する、アベノミクスの成果とされる数値を再検討している。まず「総雇用者所得の増加」だが、雇用者数の内訳で見ると、2012年から2018年にかけて雇用が大きく増えたのはまず医療・介護の125万人で、アベノミクスとは無関係。アベノミクスと多少とも関係あるのは、円安で恩恵を被る製造業と宿泊業だが、両者の雇用者像はわずかにすぎない。「就業者数の増加」にしても、アベノミクス以前の増加傾向が続いているだけ。株価の上昇は日銀と年金による買い支えであることは明白である。

 なぜこんな政権が続いていくのか。著者の答えは「小選挙区制」にある。民主党政権が「失敗」とされ、自民党民主党の悪口を言い続けているうちに、民主党を支持した人のかなりの割合が投票に行かなくなってしまった。著者は、野党は賃上げを争点に掲げるべきだとする。

 統計は国家を映し出す鏡である。しかし安倍政権はその鏡を歪ませることを覚えてしまった。官僚は出世のために政権に忖度する。そんな中「統計委員会」は気概を示せるだろうか。データアナリストが花形の職だとしても、肝心のデータが滅茶苦茶にされていてはどうしようもないだろう。

 

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[book]ミヒャエル・ハネケの映画術

 

ミシェル・スィユタ、フィリップ・ルイエ『ミヒャエル・ハネケの映画術 彼自身によるハネケ』水声社、2015年、を読みました。

 

 映画ファンでミヒャエル・ハネケの名前を知らない人はまれだろう。『白いリボン』と『愛 アムール』で2回のカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞した。複数回受賞はハネケの他には今村昌平などわずか6人。現代映画の巨匠の一人と言って過言ではないだろう。

原著は2012年にフランスで出版された。トリュフォーのインタビューによる『ヒッチコック映画術』に範を取り(但し本書ではインタビュアーは二人だが)、対話によってハネケの映像製作の秘密に迫ろうとしている。ハネケもかなり誠実にそれに応えているように見える。インタビュアーは『カイエ・デュ・シネマ』のライバル誌である『ポジティフ』誌で活躍する映画評論家。ちなみに訳者あとがきによれば、『カイエ・デュ・シネマ』でのハネケの評価は揺れ動いているそうだ。

 ハネケの作品には独特の魅力があり、かつ毒もある。私はハネケの作品が好きで映画についてはほぼ全作品を見ているが、では万人に勧められるかと言うと、ためらう気持ちもある。時に激しい暴力があり、残虐なストーリー展開があり、果ては『ファニーゲーム』のように、登場人物がカメラに向かって映画内の時間の巻き戻しを宣言するといったような、観客に対するあからさまな挑発まで含まれている。全てを語らずに「謎」を残すのもハネケの特徴の一つで、犯罪の犯人が分からなかったり(『隠された記憶』など)、登場人物の行動の動機が分からなかったり(『セブンス・コンチネント』など)する。『カフカの「城」』の場合には、原作の小説が未完であるのと正確に対応し、そこで映画のストーリーも切られてしまう。『愛・アムール』の夫の行方は分からないし、『タイム・オブ・ザ・ウルフ』の場合も、さて主人公たちは一体これからどうなるのだろうというところで終わってしまう。群像劇の『コード・アンノウン』では、登場人物同士、物語同士のつながりに謎が残る。ハネケ監督の意図通り、観客は否応なしに考えさせられることになる。

 ハネケの映像は美しい。わざと混濁したシーンが描かれることもあるが、それも含めて、画面の隅々まで監督が「支配」しているように思える。そうした絵面づくりのために、大変な労力をかけていることは本書でその一端が示される。黒澤明が『天国と地獄』のために民家を移動させた話は有名だが、ハネケもそれに劣らない。例えば『白いリボン』のロケハンでは、美術監督のクリストフ・カンターが車で六万キロを脚って、北ドイツのプリーグニッツ地方のネッツォフ村を見つけた。そこを映画の舞台である「20世紀初頭」に見せるために「道路に穴を開けたり、アスファルトを剥がしたり」「電柱やテレビアンテナも引き抜き」「家々の正面に舞台装置を被せて、村の三分の一以上に偽装を施し」ている(p.352)。音にも並々ならぬ気の使いようで、『セブンス・コンチネント』の母親が自殺するために薬を飲んだ後の鼾の音は、「カール・シュリフェルナーがこっそり病院で録音してきた、本物の瀕死の人の鼾」を使っている(p.371)。「ハネケのような映画」を作りたい人には参考になる個所が多々あるだろう。

 とはいえ、その作品のモチーフなりがどこから「降りて」きたのかは、当然ハネケ自身にも明らかにすることはできない。ハネケ自身は、映画作品と、監督自身との生い立ちとを結びつけるような映画解釈を厳しく批判している(p.17)が、もちろん生まれや育ちも影響は与えているだろう。ハネケはミュンヘン生まれだが、育ちはオーストリアで、本人の意識の上ではオーストリア人である。父親のフリッツ・ハネケは俳優、母親のベアトリス・フォン・デーゲンシールドは女優という「芸能一家」に生まれたが、忙しい両親に代わっておばに育てられた。ほどなく両親は離婚し、母親はユダヤ人作曲家と再婚することになる。大学では哲学を学び、在学中に最初の結婚もしている。その頃から演劇青年であったが、お金を稼ぐ必要があったので各種アルバイトを行い、最初の正規職は南西ドイツ放送局での「ドラマトゥルク」職につく。これは他の国にはあまりない職だと思われるが、テレビ局に持ち込まれる脚本の中から最良のものを選んで、テレビ映画の完成に最後まで付き合うという職である。ここで厳しい批評眼が養われたのであろう。恵まれたスタートと言える。当時影響を受けた映画作品としては、ブレッソン『バルダザールどこへ行く』、タルコフスキー『鏡』、パゾリーニ『ソドムの市』などを挙げている。

 俳優のキャスティングは、本書を読む限り、気心の知れた俳優を何度も使うという傾向があるようだ。確かに『ファニーゲーム』『カフカの「城」』の両作品に出演したウルリッヒ・ミューエなど、お気に入りの俳優がいる。但し、演技指導は厳しく、時には俳優と意見が対立することも書かれている。老夫婦の愛を扱った『愛 アムール』では、有名なアラン・レネヒロシマ・モナムール二十四時間の情事)』(1959)に主演した女優のエマニュエル・リヴァを起用、撮影時既に80代を迎えていた彼女を、シャワーシーンで裸にしている。

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