平田知久『ネットカフェの社会学』を読みました。

平田知久『ネットカフェの社会学慶応義塾大学出版会、2019年を読みました。

 

 著者は社会情報学会の中でも「期待の若手」だったが、現在ではすっかり中堅の研究者となり、おそらく学界を背負って立つことになるだろう。学会でも何度かご一緒したが、その鋭い意見には敬服するばかりだった。
 さて本書はそんな平田氏が京都大学に提出した博士論文。タイトルにもあるように、ネットカフェがテーマだが、特に日本のそれと東・東南アジア諸国のそれとを比較して各国での特徴を描き出したところに眼目がある。日本のネットカフェを見ているだけでは、それがどれだけ他国と違う発展形態を遂げたのか分からない。ネットカフェという小さな窓から、その国の姿が垣間見えるのである。
 日本のネットカフェの特徴は、その「個別ブース」性と、「静寂」にある。なぜそうなのか。著者の見立てでは、他人のくつろぎを邪魔しないように、他人への干渉を避けるという配慮が、日本では行き届いているということになる。
 それに対して、著者が行ったアジア諸国のネットカフェは、多かれ少なかれ喧噪の場である。第4章で紹介されるソウルのネットカフェは友人と連れ立って遊ぶ場所という性格があり「うるさい」。第5章で紹介される台北のカフェは、カナダビザに取得をアシストするという、「ケア」の側面を持ったものがある。バンコクでは、家にパソコンを持たない子どもたちが、ネットを使わなくてはできない宿題をするために、ネットカフェに集っている(第6章)。それだけではなく、「バーガール」たちが、お客をつなぎとめるためのラブレター(より直截的な言い方をすれば「セックス・レター」)を書くために、ネットカフェが使われてもいるのだ。
 著者による「半構造化型インタビュー」は堅実なものだが、時として失敗することも正直に書かれている。北京での取材で、質問の途中ら、日本の文化に興味を持つインフォーマントたちに、逆に質問責めに遭ってそれ以上の調査を断念している(p.203)。彼らは決して裕福ではないのに、『週刊少年ジャンプ』の簡体字版がネットより早く読めるなら一冊30CNYまで払う、ネットより早く日本の劇場版アニメを中国で観ることができるなら150CNY出してでも行く、等と語るのだ。中国についてはその広大さと問題の複雑さから、著者は単純な結論を留保しているように見えるが、ここに描かれているのもまさに中国の一面だろう。
 個人が自由にネット接続できるスマホの時代には、ネットカフェが徐々に役割を終えようとしているとしても、「ネットカフェにおける歓待の実践とその応用は、共にあることの現代的な困難がオンライン上に散見されるように映る現代においてこそ、希求されていると考えることもできるだろう」と著者は語る。地球全体が一足飛びに理想郷になることはない以上、著者のこのような探求は今後も続いていくだろう。本書の元になった研究自体は2010年前後のものであるので、多少はここに描かれた事実も変化はしているだろうが、その時期の貴重な定点観測として価値を失わないだろうと私は考える。