「重箱読み」と「湯桶読み」:三文字の場合

 普通の熟語の読み方は「音」+「音」、あるいは「訓」+「訓」ですが、例外的に「音」+「訓」だったり、「訓」+「音」だったりします。前者が「重箱読み」、後者が「湯桶読み」というやつですね。
 では三字熟語だったらどうか。「出不精」だったら「訓音音」、「上出来」だったら「音訓訓」ですね。組み合わせは2の3乗で8通りありますが、そのすべてを網羅することはできるのか?
 まあ何とかなりそうではありますが、地名、それも北海道の地名だったらば、簡単にすべてを網羅することができることに気が付きました。日本の地名は、結構当て字が多く、その場合は音でも訓でも使いますが、特に北海道は、アイヌの地名に宛てたものが多いですから、本州以南よりも、さらに無理な当て字が多数見られます。重箱読み湯桶読みも多い。札幌、留萌、美深などは前者、稚内、室蘭、芦別などは後者。美唄や士別は音読みで、帯広や北見は訓読みです。
 たとえば「択捉」なんて、いったい誰が考えたのでしょうね。これは「えと・ろふ」ではなく「え・とろふ」つまり、「択ぶ」の「え」と「捉える」の「とらふ」をくっつけたのでしょうが、「え」と読む多数の字の中で、わざわざ「択」を択んで、「捉」と並べた場合の字の面白さを狙っている。ただものじゃありません。
 話が逸れました。
 北海道の地図から三文字地名をピックアップしてみると、すべての組み合わせがありました。
 「音音音」は倶知安喜茂別、初山別など
 「音音訓」は富良野、二風谷、佐呂間など
 「音訓音」は朱鞠内、訓子府、秩父別など
 「音訓訓」は奈井江、新函館、新小樽など
 「訓音音」は木古内長万部、歌志内、女満別、浜頓別など
 「訓音訓」は上士幌、弟子屈など
 「訓訓音」は黒松内、厚沢部など
 「訓訓訓」は苫小牧、妹背牛など

だから、例えば「倶知安読み」「富良野読み」「朱鞠内読み」「奈井江読み」「木古内読み」「上士幌読み」「黒松内読み」「苫小牧読み」とすれば、三文字熟語の音・訓の組み合わせはすべて網羅できることになります。
 四文字については、同様に十六通りになります。例えば「上富良野」は「訓音音訓」、「音威子府」は「訓音訓音」、「新十津川」は「音訓訓訓」、「知床斜里」や「神居古潭」は「訓訓音音」などとなります。が、さすがに面倒なので、全部あるのかどうかは調べていません。お暇な方は調べてはいかがですか?

超デジタル時代の「学び」

自閉症児教育を専門とする、東北大の渡部信一教授の著作。「超」デジタル時代においてはむしろ、「よいかげん」な、あるいは、アナログな知が重要性を増すという主張。
本文中に、内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったか』(講談社)という本からの引用があるのだが、その中で内山氏は、日本人は1965年を境に、「伝統的な精神が衰弱し、自然とのコミュニケーションが変容した」のだそうだ。1965年って、私の生まれた年ではないか。
内山氏や、それを引いて渡部氏が言うように、「妖怪」の存在は確かに、説明のつかないものを説明して、人々の精神を安定化させるのに役立っていたとは思う。また、それの実益もあったろう。しかし、それだけを言うのは片手落ちだとも私は思う。「キツネ」「妖怪」だのを利用して、合理的で頭のいい人間が、素朴な人間を騙して利を得るという側面も、あったに違いないから・・・
超デジタル時代の「学び」

十字軍物語 3

第三次以降の十字軍を扱うが、なんといっても主役は、第三次十字軍を率いた英国の「獅子心(ライオンハート)王」リチャードだと思われる。「ローマ人の物語」がカエサルの魅力を伝えていたように、本書はこのリチャードの魅力を伝えるために書かれたのではないかと思うほどだ。それに対するサラセン側の敵手はサラディンだが、こちらもまた魅力的だ。
第三次十字軍は結局、イスラエルを奪還できなかったので、失敗とみなされている。しかし実際には、「名を捨てて実を取る」というのか、講和によって、キリスト教徒が安心してイスラエルを訪問できるようになり、その後二十年以上続く平和が得られている。それと比べて、現在のイスラエルパレスチナの闘争が、どれほど野蛮に見えることか。
十字軍物語〈3〉