セックスレスと文化人類学

有斐閣から送られて来た「書斎の窓」というPR誌が、何やら色気(?)づいている。大内伸哉氏(神戸大学教授だそうだから、広い意味では「同僚」か)の連載「イタリア的発想のすすめ」の第5回で、イタリアの女性キャスタのエロチシズムから説き始め、日本の若い男性の「セックスレス」を嘆く。
その同じ号で、元大学教授という肩書きの関口礼子氏が、連載を開始した「少子化と家族制度のはざまで」の中で、上記の連載の第1回(6月号掲載)の最終節が「どうしたら若者はセックスをするのか」であったことに触れ(読み返してみると確かに大内氏は、その第1回でも、第5回と同様に、若者のセックスレスを嘆いているのだった)、東京都の調査結果などを引きながら、実は若者の性行動は実は活発であり、少子化になっているのは中絶をしているからだという見解を示している。
ただどうも、この2人の論旨はすれ違っている。大内氏の言うセックスレスというのは、主として被用者の話であるから、20代、30代を想定しているのであろう。それに対して、関口氏が引用するのは、高校生の性行動のデータである。若いうちに活発に性行動をしても、社会人になると衰えるというのであれば、両者のデータは別に矛盾していない。
関口氏の引用するデータは、例えば高校3年生の半数近くが性行為を体験している、というものだ。裏を返すと、半数以上は体験していない。さらに、所属する集団によってこの数字は大きく変わってくるだろう。一部に奔放な性的行動を取る人間がいるというだけの話かもしれない。
下記の書評も参照。
書斎の窓 2009年 06月号 [雑誌]

ギャルとギャル男の文化人類学

イベサーのトップに登りつめた男がみずから書いたイベサー集団の実態。正直私は、イベサーという言葉すら知らなかった。ロケット団風に言うと、
「最近流行りのイベサーって知ってっか?」
「そんな言葉、山形では何十年も前から使ってますよ」
「へえ、どんな感じで使ってんの?」
「寒くなってきたから、コートを着ていった方がいいべさあ」
「そりゃお前『いいべさ』って言ってるんだよ!」
イベサーというのは、イベントサークルの略で、茶髪やガン黒などで決めた「いけてる」若者の集団。渋谷にたむろして、「なわばり」を持ち、パーティーなどのイベントを主催する集団。上記の話ともつながるが、性的には奔放で、体験人数を競うような男女が多く集まる。大学生が中心(それも、偏差値の高い大学が主)で、3回生の秋になると通常は「引退」となる。
本書では、イベサーの人々が、実際には他の人々とさほど変わらない集団であることが強調される。上下関係の礼儀には厳しいし、服装の規範もきつい。特に、犯罪集団であった「スーフリ」との違いは強調されている。
とはいえ、暗部も記されている。著者はトップを取ってから引退し、現在では文化人類学者の卵となっているが、薬物売買や、債務取立てといった、違法な犯罪に走る元イベサーの例も挙げられている。道徳的な逸脱(違法スレスレのこと)をするのがかっこいい(「オラオラ」)という、独自の美意識を持つ人々であるから、危険と隣合わせだ。
ギャルとギャル男の文化人類学 (新潮新書)

「恥の文化」という神話

ルース・ベネディクト菊と刀』と言えば、日本文化論の代表格、いわば古典とされている。しかし著者は、この本が、アメリカによる侵略戦争の正当化、領土拡張という「マニフェスト・デスティニー」の正当化のためのプロパガンダの書であることを、実証して行く。「恥の文化」とは、罪の意識を持たない劣った人間の文化であり、攻撃しても止む無しというのが、隠れた主題だというのだ。
著者が注目するのは、ベネディクトが参考文献に挙げていないヒュー・バイアスの『敵国日本』および『昭和帝国の暗殺政治』だ。戦時プロパガンダとして書かれたこの2冊が、『菊と刀』の論旨に大きく影響していると著者は述べ、ベネディクトのそれ以前の著書(『人種』や『文化の型』)で採用されていた、文化相対主義的な考え方が、大きく変容したとする。
さらに、ベネディクトのコロンビア大学での立場も影響していると言う。実際、『菊と刀』の評判によってベネディクトは、巨額の研究資金を政府から引き出すことに成功し、60歳にしてやっと助教授から教授に昇進するのだ。他にも、師であるボアズの死や、文化人類学の地位向上、共産主義者であるとの疑いを払拭することも、ベネディクトの執筆動機にあると著者は推測する。教授昇進の4ヶ月後に病没してしまうのは皮肉なことだが。
著者がここで書いていることは、おそらく事実なのだろうと思う。しかし、ではなぜそのようなプロパガンダ書籍が、日本で広く受け入れられたか、という疑問は残る。著者は、ベネディクトの文化人類学はいかさまだとするが、やはり正鵠を射ている部分はあったのではないか。それとも自虐癖のためなのか?
「恥の文化」という神話