絶望の国の幸福な若者たち

1985年生まれの、まだ二十代の社会学者である古市憲寿氏の著作。ピースボートを扱った修士論文『希望難民御一行様』に続く二作目。国力が衰退しつつあり、また、様々な社会問題の皺寄せが若者に向けられている(例えば中高年の雇用が優先され若者の失業率が高い、年金制度において現在の老人は掛け金の何倍も受け取れるが現在の若者は受取額が支払い額を下回るかもしれない)中で、なぜ若者の生活満足度が高いのか(例えば、2010年の内閣府調査で、20代の生活満足度は70、5パーセントと、30代や40代より高い)という問題を解き明かそうというもの。
第一章では「若者論」自体を問いなおす。若者を「異質な他者」「都合のいい協力者」とみなす論考が古くから存在することを証し、しかし、若者を十把ひとからげにする形の「若者論」が成立したのは、国民の中流意識が浸透した一億総中流化(1970年代)以降ではないかとの作業仮説が語られる。
第二章は、「ムラムラする若者たち」という、一見不可思議なタイトルがついているが、これは若者が「ムラ」(仲間)の中で内向きに、コンサマトリーに暮らしているため、不満が少ないのではないか、との著者の仮説を示している。
第三章「崩壊する「日本」?」と第四章「「日本」のために立ち上がる若者たち」は議論を呼びそうだ。著者は、サッカーワールドカップや、あるいは「ネット右翼」などに見られる若者の「ナショナリズム」は、政治的なナショナリズムに陥る危険は少なく、ただの「日本ブーム」であるとする。ネット右翼も左翼も、「日本のために行動する」という点では大して変わりがないという主張だ。私は、「国家のため」と「社会のため」とは、かなり性質が違うと思いたいのだが、観察から得られた著者の実感にも一理ある。第五章「東日本大震災と「装丁内」の若者たち」もこの二章の続きで、東日本大震災後の若者たちの動きを「想定内」とした上で、これで日本が一変したという言説を批判する。
第六章は、書名と同じ章名がついている。今後の貧困を運命づけられているとしても、ネットやケータイの発達もあって現在の若者はそれなりに豊かで幸福に暮らせており、貧困よりも「承認」(周りの人々に認められること)の方が重要となっているというのはその通りだろう。だが、人々が年を取っても「大人」になれないことを指して「一億総若者化社会」と名づける(p.261)のはミスリーディングだと思う。確かに見た目が若い中高年は増えたが、別に彼ら彼女らは若くなったわけではない。成熟できないだけだ。「一億未成熟時代」と呼ぶ方がマシではないか。
絶望の国の幸福な若者たち