金星の夜

シゲルはいくつかの氷を掴んで、コップの中の梅酒に落とした。
 家庭の冷蔵庫で作った氷は、酒場での氷とは違って、完全に透明にはならない。無数の小さな泡が、氷の中に閉じ込められている。耳を近づけてみると、小さな音を立てながら泡が空気中へ逃げていく音が聞こえる。
 液体に氷を浮かべた場合、振った方が速く冷えるのだろうか。経験的には速く氷が解けて冷えそうにも思えるが、攪拌するということは、とりもなおさず摩擦による熱を加えることでもある。
 シゲルはそれでも、経験的になぜか振った方が早く冷えるような気がして、グラスの中央の括れた部分を持って、数度ゆり動かす。このグラスは見た目には良いが、くびれた部分から奥が洗いにくい。レンコングラス(太いガラスの円柱に楕円形の縦孔が数本開いていて、別々の飲料を少しづつ注げるようになっている。ストローを使う。)の洗いにくさに比べればまだましであるが。カチリカチリと氷はぶつかる。もうかなり小さくなったようだが、あいにく補充する氷はない。すべて飲んでしまったし、こう暑くては、氷を作るのには冷凍庫のプライバシー権を数時間ほど保ったままにしておく必要がある。
「暑いな」シゲルはふと口に出す。
「暑いっていう言葉は、言わない約束をしたでしょ」ベッドの上からキイコが呟く。キイコというのは漢字で書くと紀伊子だが、ネグリジェを身に纏っただけの姿は、カタカナでキイコと書いた方が相応しい。なんでも両親が紀伊半島へハネムーンへ行った時に授かった子供であるのが理由である。シゲルにしても、トランクス一枚でうろうろしている所は鬱と書くよりいいだろう。ただ、シゲルの胸にはその名の通り、鬱蒼とした胸毛が盛り上がっている。シゲルの中学時代の仇名は「しげるブーリャン」だった。音楽の教科書に載っていた、ロシアの「道」という曲にそのようなフレーズがあったのだ。ブーリャンという植物は寒さに震えているが、今のシゲルは暑さに苛立っている。
「そうか、そうだったな。ちょっと氷を買って来るよ」
「まだ飲むの?梅酒だってアルコールよ。明日起きられないわよ」
「大丈夫だろ」
 シゲルは白いシャツだけ袖を通し、部屋を出た。サンダルをつっかけ、アパートの錆びかけた階段を下りる。コンヴィニエンスストアは目と鼻の先だ。
「暑い」
 シゲルは額の汗を手で拭った。
 コンウィニエンスの自動ドアが開いた時には、ひんやりとした涼を感じた。だが、さほど冷房は効いてはいない。雑誌の前を通り過ぎ、大型冷蔵庫の前に来るときにはすっかり体は慣れてしまうほどだった。
 扉がガラス張りの冷蔵庫の中には、色とりどりのジュース類が並んでいる。ロックアイ
スを目で探し、その扉を開けると、今度は本当にひんやりとした爽やかさを感じた。
「ああ、気持ちいい」
 だがしばらく開けていると、向こうの店員が何か言いたそうにこちらを見ている。おどしつけてやろうかともシゲルは思ったが、気の弱そうな、おどしがいのなさそうな奴なので禁欲することにした。泣かれたりしたら、また面倒である。
 シゲルは、ロックアイスだけを買って、熱風漂う表にでた。こおりはシャツと体の間に入れた。アパートの部屋へ戻ったときには、アイスは溶け始めていた。
「ただいま」
「あ、お帰り」
「やっぱり眠れないか」
「ええ」
「一体今何度だい?」
「33度」
「夜の一時で33度か。まいったね、こりゃ」
「今日も熱帯夜ね」
「熱帯夜なんてもんじゃないよ。都会っていうのは、ヒートアイランドっていうしな」
「そうね」
「おまけに、うちは両側がクーラーつけてるしな」
「そうね」
「やっぱりクーラーはほしいな」
「そうね」
「しかし、車のローンがあるからな。あれを買ったのがまずかった」
「そうね」
「お前、さっきから『そうね』しか言わないね」
「もうすっかりばてて、頭が働かないわ」
「あ、ドライブしようか。このごろ余り走ってないし。車にはクーラーがついてるぞ」
「大丈夫なの、明日の仕事?」
「いいんだよ、会社で寝てれば」
「あ、アタシも明日仕事だ」
「大丈夫だろ、どうせボケッとしてるだけなんだろ」
「そうはいかないわ。明日のは秋物新作発表会だから、動き回らなければならないわ。モデルったって、じっとしてればいいだけじゃないのよ」
「そうか。いいよ、二時間くらいで帰るよ。道もそんな混んでないだろ、お盆も近いし」
「お盆はまだ。でも、最近乗ってないから、いこっか」
「ああ、こんなとこにいたって、眠れないだけだ。行こう行こう」
「ちょっとまってよ。一応着替えるから」
「その恰好でもいいぜ、おれは」
「シゲルはよくても、アタシがよくないの。ちょっと電気消してよ」
 キイコはネグリジェを脱ぎ捨てた。下着だけの、均整の取れた裸身が月明かりの下で白く光って見える。
「もういいわ。行きまっしょう」
 キイコはレモン色のワンピースを着ていた。胸の横には、真っ赤なハイビスカスをあしらった模様がついている。
「ああ、出よう」
 二人は続いて階段を下りた。借りている駐車場は、さっきのコンビニエンスストアよりも遠い。
 シゲルは車に近づきと、まず助手席のカギを開けた。
「さあ、お乗り下さい、僕の女王様」
「ありがと。うわー、熱風が吹き出してきた。中は一段と暑いわ」
「はっはは」
「わかってたのね」
「しばらくはドアを開けておこう」
 二人は手持無沙汰に立っている。
「キイコ」
「なに」
「何でもない」
「まったく」

「キイコ」
「何よ」
「愛してるよ」
「うそ!」

「キイコ」
「もういい加減にして」
「そろそろ乗ろうよ」
「はいはい」
 エンジンは一発でかかった。夜なので、埃をかぶっている筈の車でも、美しい白色に輝いて見える。
「しばらくは窓を開けとこう」
「そうね」
「高速、どうしようか」
「いいんじゃない、搭らなくても。そんな遠くに行くんじゃないんでしょ」
「ああ」
「ラジオつけてみようよ」
『今日の東京地方も蒸し暑く、今年十五回目の熱帯夜になりそうです。明日の天気は晴れ、最高気温は33度、最低気温は28度になる見込みです』
「熱帯夜なんてもんじゃないっていうのにな」
「でも、他に言いようがないじゃないの。熱帯が一番暑いんだから」
「砂漠は?」
「砂漠の夜は寒いのよ。昼間は暑いけど」
「それなら金星夜だ。金星なら文句あるまい。摂氏で400度くらいになるんだから」
「へえーえ」
「波止場の方でいいだろ」
「ええ」
「金星には、硫酸の雨が降るんだよ」
「なんでそんな事知ってるの」
「昔、天文部だったんだ」
「へえーえ。そうなの」
酸性雨なんてもんじゃないぜ」
「あ、そこを左よ」
「ああ。しかし酸性雨が降ると、リトマス試験紙で出来た服が売れるだろうな。青い服が雨で赤く濡れると、危険ということになる」
「バカねえ」
「埠頭でいいよなあ」
「ええ」
 車はかちどき橋を渡り、晴海の方へと進む。
「おい、あれはロシアの船じゃないか」
「どうして」
「ほら、へんな文字が書いてある」
「本当ね」
「おっと、ここは乗り入れられないな。どっか埋め立て地の方へいこうか」
夢の島は?」
「僕らのドリームアイランドか。とんでもない名前をつけやがって」
「ねえ、あそこの桟橋ならいいんじゃない」
「ああ,そうだね。そうしよう」
 シゲルは車を急旋回させて、止まる。
「おい、きっと外はめちゃくちゃ暑いぞ」
「やっとクーラーが効いてきたもんね」
「仕方がないか。金星の夜だもんな」
 二人はしばらくためらっていたが、シゲルがエンジンを切ったので、中もどんどん暑くなっていく。耐え切れなくなり、外へ出る。暑さに対する腹いせのように、ドアを乱暴に閉める。
「海ね」
「ああ、海だ」
「ちょっと、シゲル、クラゲがいるわ」
「どれどれ」
「クラゲって英語で、何て言うか知ってる?」
「知らない」
ジェリーフィッシュって言うのよ」
「ジェリーって、あの食べるジェリーと同じ?」
「そうそう、だってどっちもプルンプルンしてるじゃない」
「じゃあキイコのおっぱいもジェリーだな」
「スケベ!」
「ユーハブアグレートジェリーバスト、オーケー?」
「ふん」
「暑いな。帰るか」
「もう帰るの?」
「ああ。長くいて仕方がないだろう。涼しくなるわけもなし」
「わかったわ。帰りましょう。じゃあ先に行ってエンジンを懸けて、クーラーを効かせておいてちょうだい」
「はい、女王さま」
 シゲルはしばらく走って車に向かったが、疲れたのかすぐに歩き始めた。エンジンがかかった時には、キイコも追いついて車に乗っていた。
「よし、いくぞ」
 車は海の方へと走りだす」
「バカ、シゲル、そっちじゃないわよ」
「いや、そうなんだが」
「早くブレーキ」
「効かない」
「うそ」
「効かない。困った」
「ハンドル切って」
「言うことを聞かない」
「バカ、バカ、飛び込む、ああ」
「オー、マイ、ゴッド」
 車は放物線を描き、ドブーンと飛び込む。水が入ってくる。シゲルがその時思い浮かべていたのは、グラスの中の氷の中に閉じ込められた泡たちが、小さな音を立てながら水面へと浮かび上がっていく姿だった。その時シゲルは、強い力で引っ張られた。あとのことは、覚えていない。
    
 シゲルが目を覚ましたのは、病院のベットの上だった。そばにはキイコが付いていた。
「シゲル、気がついたのね」
「おお、何だ、助かったのか。もしかして、君が?」
「そうよ。あたし以外に誰がいたというの」
「そうか。一生恩人として、頭が上がらないなあ」
「大変だったんだから。重いあんたを引っ張って泳ぐの。陸にたどりついて、電話ボックスまで走って救急車呼んで」
「そういえば、キイコは昔シンクロの選手だったんだっけ」
「そうよ」
「そうだったね」
「ねえ、何で飛び込んだりしたの?」
「わざとじゃないさ。おそらく、たぶん、コンピュータの故障だろうと思うよ。こんなに暑ければね、機械も狂うよ」
「あの車、もう使えないわよね」
「そりゃそうだろ。でも保険金が下りれば、ローンは払わなくてすむんじゃないかな。どうなるか、分からないけど。もしそうでなければ、架空の車のローンを、延々と払わなきゃならない。そうそう、医者は何て言ってた?」
「ショックで気を失っているけど、大したことないだろうって。外傷も見当たらないし」
「そうか。明日の会社は、どうしようかな」
「具合が悪いようなら、休んだ方がいいんじゃない」
「自動車で海に飛び込んだんで、出社できませんて言うのかい?」
「金星のせい、って言えばいいのよ」
ムルソーじゃあるまいし。そんな言い訳はムリソーだ」