かわいそうな牛たちと、獰猛な虎たち

「牛」のつく字を見ると、そのかわいそうな運命に思いを致さざるを得ません。古代から牛たちは、人に対して反抗もせず、唯々諾々と殺されて来た、ということでしょうか。いけにえを表す「犠牲」が二つとも牛ヘンであるのみならず、例えば「解」という字は、刀を以って牛を解体するところから出来ている。他にも、ちょっと見には分かりませんが、「半」という字も、刀で上から牛を分かつ様子を示している。「判」もほぼ同様です。
牛と比べると、虎のつく字には、随分と獰猛な字が多い。例えば「劇」がそうですが、これは豚(豕)を虎が襲っているところを示している。あるいは「虐」(しいたげる)は、虎がつめを露わにしている様子です。
ところで、この牛と虎をあわせた「うしとら」と読む字がある。丑と寅の間の方角を表す「艮」で、まあこれは十二支で隣り合っているからに過ぎませんが(いぬい「乾」、たつみ「巽」、坤「ひつじさる」も同様)。むしろ「傷」と書いて「とらうま」と読ませる方が実態に即しているのかも。

名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか

小谷野敦氏による、「名前」に関するエッセイ集。タイトルにあるいわゆる「武家官位」の話題から、諱(いみな)や「偏諱」(偉い人から名前の一字をいただく)の話、日本人には悩ましい外国人の「愛称」など、豊富なトリビアが溢れている。さらには、夫婦別姓問題やネット上の「匿名言論」の問題について、小谷野氏のいつもの主張が展開される。匿名が卑怯というのはその通りだが、匿名であることによって利益を受けている人が相当数いる以上、撲滅することはおそらく不可能だろう。
名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか

離脱・発言・忠誠

著者のハーシュマンの名前は不勉強ながら本書を読むまで私は知らなかった。ベルリン生まれのユダヤ人学者で、戦後は米国の大学で教鞭を執った経済学者だが、他方、経済学の限界にも鋭く気づいており、本書もいわば、経済学と政治学との間を架橋するような独創的は発想による著作。経済学では、商品や組織に不満がある場合には、黙ってその商品を買わなくなるか、あるいはその組織から抜ける、と考えるが、ハーシュマンは、そうではなく、商品や組織に文句をつける(「発言」)という手段の方が合理的な場合があり、いったいそれはどのような場合なのかを詳しく分析する。このハーシュマンの発想が、その後あまり広がっていないように見えるのは惜しい。
ラテンアメリカ等と比較して、日本という島国が「離脱がない」ことによって利益を得た、というのはちょっと面白い。離脱できないことが、「妥協という美徳」を教え込んだ、というのである。
離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)