多元化する「能力」と日本社会:ハイパー・メリトクラシー化のなかで

著者の本田由紀氏は、東大の社研を経て現在は情報学環助教授をしている人。メリトクラシーとは、(生まれや性格ではなく)能力にしたがって人々が選抜される仕組みのことだが、ハイパー・メリトクラシーというのは、個々の場面に応じた、情動的なものも含んだ形での能力である。一般のメリトクラシーが、例えば学歴や偏差値、成績で代表されるものであるのに対して、ハイパー・メリトクラシーは、抽象的な「生きる力」とされたり、あるいはコミュニケーション力、感情労働のようなものもふくんでいる。
こうしたハイパー・メリトクラシーが支配する世界となると、それはメリトクラシーの支配する世界よりも、さらに行きづらい世界になるだろう、という著者の主張には同意する。試験のような公正な仕組みもなく、また、人間全体が評価にさらされるため、逃げ場もないからだ。
しかし、同意できるのはこの点だけである。
まず、現代において「ハイパー・メリトクラシー化」が進んでいることの証拠として著者が挙げている事例や言説が、まったく説得力を持たない。ハイパー・メリトクラシー化を主張する言説が多いことは、そうした事象が進んでいることの証明にはならない。むしろ、メリトクラシー化の破綻や限界を感じる危機感から言説がつむがれているだけかもしれないからだ。第四章で挙げられている、スキルについての分析も、面倒なので詳論はしないが、不適切な点だらけだ。主観的なスキルが、客観的なスキルと一致する保証はまったくない(コンピュータスキルについてだけは一致するかもしれないが・・・)。
また、それへの対処策として「専門化」が挙げられているのも不適切である。専門性を持たせることで、ハイパー・メリトクラシー化する社会への「鎧」としたいという意図は分かるが、現代では専門はすぐに陳腐化するだけでなく、その専門についていくためには、高校段階(できれば大学でも)で豊かな基礎学力を身につけさせる方がはるかに重要である。高校段階での専門化は、愚民化政策に他ならない。
こんな本が、大佛次郎論壇賞(奨励賞)を受賞したらしい。明らかに過大評価である。
多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13