今日東海道線JR神戸線)に新駅「さくら夙川」が開業だそうだ。
実は私は昔から、この「夙」の字が怖くて仕方がない。「夙」という字の中身は、「死」「殊」「残」などの偏である歹、「いちたへん」「がつへん」に見える。この歹の部分はもともと、骨を表す象形文字で、骨という字自体は、この部分の下ににくづきがついた形なのである。
しかし「夙」はこの骨の象形とはまったく関係ない。分けるとすると、「凡」+「夕」なのだ。凡は風の古字で、「風」は「凡」+「虫」、「鳳」は「凡」+「鳥」なのだ。つまり、全く関係ないはずのものが、よく似た形になってしまっている。そこが怖い。

こうした偶然の類似は、他にもある。月と肉月(肉の変形、肺とか胃とか内臓関係の字に多い)、舟月(舟の変形で、服の偏や、兪の中の月など)もそう(活字体ではいずれも月で区別がない)。朋もまた別である。「心」と「必」は関係ないし、「癸」と「発」が似ているのもまったく偶然で、活字体は似ているがもとの象形文字はまったく違った形をしている。ついでに言うと、秘密の秘がのぎへんになっているのもおかしい。本当はしめすへんなのだ。さらにいうと、しめすへんところもへんが似ているのも偶然似ているだけだ。元は「示」と「衣」なのに。「柿」(かき)と「柿」(こけら)も本当は別の字。柿(かき)は9画だが、こけらは8画で、ツクリの部分が上下に分かれていない。
なんかいろいろ思い出してきたけど、部首「方」の中の「放」の字の居心地の悪さにも似ている。独立した字としての「方」(訪、紡、防、妨などのツクリともなっている)は人体の形象だが、部首としての「方」は、「旗」「旅」「施」「旋」「族」などのように(「遊」「游」のつくりも一緒)、右上まで含めて「旗」やのぼりの形象なのだ。その中で「放」は、偶然にも右上も一致しているが、これは「方」+「攵(攴=打つ)」なのである。「於」などは鳥の形象との説が有力である。

音と文明

壮大なスケールの音文明論、あるいは音環境論。著者は芸能山城組の創設者で、音楽家としても知られる。内容の妥当性は私には判断できないが、人間の感知できない音の持つ重要性や、西洋音階の狭さが強調される。「絶対音感」に対して批判的な見解であるのも興味深い。
音と文明―音の環境学ことはじめ ―