思想地図β1

東浩紀責任編集の「言論誌」。これだけのボリュームのものを一人でまとめた才覚にはもちろん敬意は払うし、興味深い記事もある。が、文句をつけたい所も多々ある。
特集記事の柱は「ショッピング・モール論」。ざっくり言えば、東はモータリゼーションやショッピングモール化を肯定する立場に立ち、そこに新たな公共性を見る。確かに、三浦展的な「ファスト風土論」は、紋切り型と化しており、そこで思考停止はすべきではないのかもしれない。だが、東の論拠は、要は自分が小さい子どもがいるから、車で動くのが便利という実感に根ざしたものでしかない、という印象が強い。座談会では、北田暁大がその辺に噛み付いてはいるのだけれど、「この年になって、都会の賃貸マンションで暮らすのには、異様な孤独感がある」などと、泣き言めいた言葉を繰り出すのは情けない。また、豊後高田の「昭和のまち」についても、行ったこともないのに伝聞で話に出すのもどうかと思う。豊後高田くらい、行ってきたらよいではないか(もちろん私は行ってます)。
東による自動車肯定は、確かに小さい子どものいる家庭には実感かもしれないけれど、必要に迫られている家庭(小さい子どものいる家庭や、高齢者・障害者のいる家庭)だけが自動車に乗っているわけではない。必要な家族にだけ自動車を許容し、それ以外には禁止するという制度的枠組みが、今の日本には欠けている。だからまったく自動車に乗る必要がない、便利な場所に住む元気な若者や中年が、徒歩や自転車でなく自動車を乗り回してしまうのである。国東半島や島原半島などの、公共交通の不便な場所に住む人が車に乗ることまで、私は否定しない。しかし、首都圏の元気な人間が車に乗ることは、私は猛反対だ。
実はこの『思想地図』のあとがきでは、東や森川嘉一郎ら5人の集団が、秋葉原や原宿を回るのに、レンタカーを使ったことが書かれている。まさにこれこそが犯罪的である。秋葉原や原宿など、働き盛りの元気な青年・中年の男たちなら、電車で行ったらいいではないか!こういうことだから、「小さな子どもがいるから車肯定」といった議論は信用できないのだ。

もう一つ、読み進めてきてがっくり来たのが、巻末である。千葉雅也の「論文」は、まさに東礼賛で、こうしたお追従を自分の雑誌に採用する勇気には脱帽だが、そのことは今は措く。一番酷いのは、最後の浅子佳英のコム・デ・ギャルソン論で、その中に出てくる、コム・デ・ギャルソンの「ゲリラルール」5か条の翻訳が、全てまさに誤訳だらけなのだ。本当にこれを東がチェックしたのだろうか?
たとえば3の原文はこうだ。

The location will be chosen according to its atmosphere,historical connection,geographical situation away from established commercial areas or some other interesting feature

これを浅子氏はこう訳している。

場所の雰囲気や歴史的な接続をするために設立。商業地域や、その他興味深い機能から、地理的な距離に従って選択されます。

ちょっと英語の出来る人なら、この訳には絶句するだろう。まさにムチャクチャと言っていい。こんな理解でコム・デ・ギャルソンを論じたのでは、コム・デ・ギャルソン側が迷惑なのではないか。

ちなみに上の原文、私だったら以下のように訳します。
「(コム・デ・ギャルソンの)立地は、場所の雰囲気や、歴史的関係や、既存の商業施設からの地理的な距離や、他の興味深い性質に従って、選択されます」。

思想地図β vol.1