青ひげ赤ひげ

[ショートショート] 青ひげ赤ひげ

 

 アルバイトでお金を貯めて、世界を放浪するのが、その頃の僕の生き方だった。ヨーロッパを気の向くままに旅していた時、まるで絵本のような、森に囲まれた小さくて美しい湖畔に出た。小さいといっても野球場くらいの広さはあり、水の濃い蒼色からして深さは相当にあると感じられた。

 しばらく風景に見とれていたのだが、ナルシスではないけれどふと湖面に映った自分の顔を見ると、随分とひげもじゃで、むさくるしい限りだった。その時はたまたまホテルでもらったシェービングクリームと剃刀を持っていたので、湖面を見ながらヒゲをそり落とした。

 すると驚いたことに、湖の中からしぶきが上がって、美しい女神が現れたのさ。

「あなたの落としたのは、青ひげですか、赤ひげですか?」とこれまた、訳の分からないことを言う。金の斧銀の斧という話は聞いたことがあるが、青ひげと言えば妻殺しの恐ろしい貴族だし、赤ひげと言えば貧しい人たちを救った医者を描いた日本映画だ。殺すと救う、正反対じゃないか。

 僕が「どちらでもありません。普通の黒いヒゲです」と答えると、女神は、

「あなたは正直な人ですね。では、青ひげと赤ひげと両方をあげましょう」と言って、そのまま湖の中へ消えていった。

 それからは大変さ。青いひげと赤いひげが半分ずつ生えてくる。ちょっと伸ばしていると、必ず「何でひげを2色に染めているんですか」と訊かれる。正直に答えても信じてはもらえない。仕方がないから、毎日2回ひげを剃ることにした。

 その後就職して会社員になり、毎日背広を着て、ラッシュの電車で通勤している。十年前には考えられなかった生活さ。

 時々思うんだ。あの女神との出会いが、青春の終わりだったのかなってね。死ぬまでにもう一度あの湖に行ってみたいけど、場所も忘れてしまったし、もう行くことはできないだろうなあ。