[book]精密への果てなき道

原題は「The Perfectionists :How Precision Engineers created the Modern world」。原題が示す通り、この本の主役は精密な機械作りに生涯を捧げた技術者たちであると言っていい。航海時の経度を正確に測定する機械を作った時計職人のジョン・ハリソン、工作機械を生み出した「鉄狂い」との異名を取るジョン・ウィルキンソン。発明家ジョゼフ・ブラマーの設立した錠前会社で手腕を発揮した職人ヘンリー・モーズリー。そのモーズリーのもとで修業し、ネジの規格化や測長機に貢献したジョゼフ・ホイットワース等々。確かにこうした人たちがいなかったなら、近代の技術の発展はなかったか、遅れていたかもしれない。

 ロールス=ロイス社の話はかなり詳しく書かれている。私は自動車に疎いので知らなかったが、ロールス=ロイス社を作ったのはヘンリー・ロイスという技術者で、「ロールス」氏はいわば出資者であり、営業マンであった。同じヘンリーというファーストネームを持つヘンリー・フォードはまさに同時代のライバルであったが、自動車作りについての思想は大きく異なっており、ヘンリー・ルイスはとにかく完璧な自動車を求め、ヘンリー・フォードは大衆に自動車を行き渡らせることを自らの仕事とした。

 そんなロールス=ロイス社の作った飛行機のエンジンが、2010年、カンタス航空機で爆発したことは悲劇と言えた。この事故についても本書は詳しく論じているが、結論を述べてしまえば、「滑油供給スタブパイプ」のわずかな凹みが、この大事故を生み出した(パイロットの手腕により、幸いなことに死者は出ていない)。脆弱な部分が疲労亀裂を生み、破断して高温の油が迸り出たのだ。

 第7章のレンズの話もとても興味深い。1990年、NASAが打ち上げたディスカバリー号に搭載されたハッブル望遠鏡は、鮮明な写真を撮ることができなかった。レンズがごくわずかに(直径2.4mのレンズで、2.2マイクロメートル程度)歪んでいたためであった。いかにそれを修理するのか?NASAの光学技術者ジム・クロッカーが、光の軌道を修正する「五組の修正用鏡」を付加するという前例のない方法で、宇宙空間での修理に成功するのである。第9章は、もはや限界かとも思われている、マイクロチップの微小化がテーマ。

 そして最後の第10章は日本の話である。セイコーの盛岡工場で、ゼンマイ技術者の伊藤勉に取材している。著者は日本の精密さをたたえているが、果たしてそれもいつまで続くかどうか・・・

著者はオックスフォードで地質学を学んだジャーナリスト。著者の妻は、日系人の陶芸家セツコ・サトウ・ウィンチェスターだそうで、どうりで日本にも詳しいわけである。他にも、OEDの誕生を詳述した『博士と狂人』や『世界を変えた地図』など、世評の高い著作を何冊も発表している。

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[ショートショート]鳩

 

憎い男の首を締めて殺した。奴は苦しげな声を上げ、口から血を吐いて死んだ。俺は返り血を浴びたシャツを脱ぎ捨て、部屋に戻り、窓を閉め切り、布団をかぶって寝た。人を殺すと眠れないというのは嘘だ。俺はよく眠った。ただ、悪夢を三つ続けざまに見たが。
 どのくらい眠ったろうか、オウオウ言う声で目を醒ました。苦しげな声。首を締められた男の断末魔。空耳か。耳を塞いでも聞こえる。
 たまらずにベランダの戸を開ける。飛び立つ羽音。オウオウ言う声は鳩の鳴き声だった。鳩は去り際に、干し放しにしてあったシャツに、汚い糞をして逃げた。
 あいつを殺した時の返り血の形そのままに。

障害者用駐車スペース

*[ショートショート]障害者用駐車スペース

 茶髪の若者が、駐車場の障害者用駐車スペースにクルマを停めて、さっと建物に入ろうとしたところを、中年の、恰幅の良い警備員が呼び止めた。
警「君、そこにクルマを停めてはだめだよ、障害者用だから。車椅子の絵が描いてあるだろう?」
若「僕は障害者なんです」
警「ウソだ。どこも悪く見えないよ」
若「さあ。どこが悪いでしょうか?」
警「君とクイズをしてる暇はないんだ。あっちの遠い第三駐車場はまだ空いているから、そちらに移動しなさい」
若「回答時間、あと5秒です」
警「だから、クイズをしてる暇はないんだって」
若「はい終了、正解は、頭が悪い、でした」
警「はあ?」
若「だからあなたの言っていることも分かりません。僕は知的障害者です」
警「ふざけんな。わかってやっているんだろう?いい加減にしなさい」
若「何言ってるか分かりません」
警「そんなふざけると、足を折って障害者にしてやるぞ」
若「僕はこのビルのオーナーの息子だ。クビにしてやる」
警「冗談ですよ」
若「こちらも冗談さ」
警「この野郎」

青ひげ赤ひげ

[ショートショート] 青ひげ赤ひげ

 

 アルバイトでお金を貯めて、世界を放浪するのが、その頃の僕の生き方だった。ヨーロッパを気の向くままに旅していた時、まるで絵本のような、森に囲まれた小さくて美しい湖畔に出た。小さいといっても野球場くらいの広さはあり、水の濃い蒼色からして深さは相当にあると感じられた。

 しばらく風景に見とれていたのだが、ナルシスではないけれどふと湖面に映った自分の顔を見ると、随分とひげもじゃで、むさくるしい限りだった。その時はたまたまホテルでもらったシェービングクリームと剃刀を持っていたので、湖面を見ながらヒゲをそり落とした。

 すると驚いたことに、湖の中からしぶきが上がって、美しい女神が現れたのさ。

「あなたの落としたのは、青ひげですか、赤ひげですか?」とこれまた、訳の分からないことを言う。金の斧銀の斧という話は聞いたことがあるが、青ひげと言えば妻殺しの恐ろしい貴族だし、赤ひげと言えば貧しい人たちを救った医者を描いた日本映画だ。殺すと救う、正反対じゃないか。

 僕が「どちらでもありません。普通の黒いヒゲです」と答えると、女神は、

「あなたは正直な人ですね。では、青ひげと赤ひげと両方をあげましょう」と言って、そのまま湖の中へ消えていった。

 それからは大変さ。青いひげと赤いひげが半分ずつ生えてくる。ちょっと伸ばしていると、必ず「何でひげを2色に染めているんですか」と訊かれる。正直に答えても信じてはもらえない。仕方がないから、毎日2回ひげを剃ることにした。

 その後就職して会社員になり、毎日背広を着て、ラッシュの電車で通勤している。十年前には考えられなかった生活さ。

 時々思うんだ。あの女神との出会いが、青春の終わりだったのかなってね。死ぬまでにもう一度あの湖に行ってみたいけど、場所も忘れてしまったし、もう行くことはできないだろうなあ。

理髪店にて

[ショートショート]理髪店にて

 

一か月ぶりくらいに近所の理髪店に行った。家族経営の店ではなく、若い衆を何人も使った、椅子も五脚ある比較的大きな店である。

 髪を切ってもらう間、私は黙って目を閉じ、瞑想に耽っているのが常だが、左の方の客と理髪師はもともと友人同士らしく、大きな声で盛んに話をしていた。どちらも30歳くらいか。退屈なので聞くともなしに話を聞いていた。

店員「〇〇くん、結婚したんだね。キレイな奥さんと」

客「あ、あの娘とボクは付き合ってたんですよ」

「え、そうなの?」

「そうなんですよ、僕、捕まったじゃないですか」

「そうだったね」

「あの娘への暴力で捕まったんですよ。それでその間に、○○の奴とできて、結婚したんですよ」

「へー」

 あまりにヘビーな話に、聞いているこちらもどん引きである。

 ほどなくその客は終わって帰って行った。さて、右の方では、小学校低学年くらいの男の子が、四十くらいの店員に散髪してもらっている。

店員「坊やはゴールデンウィークはどこかに行くの?」

小学生「××リゾートに行きます」

「そうなんだ、いいね。うちは休みがないからね」

 こういった他愛もない会話が続いていたが、

「おじさんは、二十年くらい前はね、ソバ屋で働いてたんだよ」

「そうなんですか」

「今この床屋では『いらっしゃいませ』って言うけど、ソバ屋では『いら』は言わないで、『シャイマセ』だけしか言わなかったね」

「そうなんですね。おソバ屋さんの後は何してたんですか」

「ちょっと人を殺しちゃって、刑務所に入ってたんだよ」

 お前もか・・・

9時からゴディバで

[ショートショート] 9時からゴディバ

 

 隆は早足で駅から会社に急ぎながら、地下街の一角にあるゴディバの店舗にちらりと目を向けた。最近は仕事に追われて、ゴディバのショコリキサーも飲んでない。昼休みに抜けて来ることは不可能ではないが、おそらく混んでいるだろう。カポーティの小説の中のホリー・ゴライトリーは、スターになってディファニーで朝食を食べる日を夢想したが、隆の夢想は平日朝からゆっくりと、ゴディバに入り浸れるような人生である。そう、9時からゴディバで。実際の仕事は、9時から5時までどころではない。セブン・イレブンを超える日さえある。

 ゴディバが「義理チョコをやめよう」と言ってくれたおかげで、隆はバレンタインデーにも、部下のOLたちから義理チョコの一つももらえなくなった。そのためにお返しも一つもしなくて済むようになった。ありがたいことである。

 9時からゴディバに行けば、その名前の由来となったゴダイヴァ夫人(夫であるマーシア伯レオフリックの圧政を諫めるために、コヴェントリーを端から端まで全裸で馬に乗って駆けたと言われる)のように、裸の女性が馬に乗って迎えに来てくれるのではなかろうか。銀座から新橋まで馬に乗って駈け抜けたらさぞ楽しかろう。周囲の民衆もチョコレートの雨あられを投げて祝福してくれるだろう。

 しかしそんな隆の夢想も、書類の山の前では雲散霧消するのである。

 

 薫の理想は平日朝からゆっくりと、ゴディバに入り浸れるような人生である。そう、9時からゴディバで。薫の育った田舎にはゴディバはなかったので、高校を出て東京に出てきた。大学に行くことも考えたが、家にはあまり経済的な余裕はなく、また、勉強も好きではなかったので、高卒で働くことを選んだ。

 東京暮らしは確かに刺激があって楽しかったが、家賃が高いことに閉口した。便利なところで風呂付だと、狭くても8万くらいはした。昼間の仕事ではどんなに働いても、20万くらいがやっとだったから、手取りの半分くらいは家賃に消えてしまうのである。

 学歴も資格もない自分が余裕のある暮らしをするには、結局自分に与えられた唯一の好条件である「若い女性」という属性を切り崩すしか方法はなさそうだった。薫は昼の仕事に加えてまずキャバクラの水商売に入り、そこが水に合わないとなると、あっさり風俗嬢となった。

 今薫は、夜の9時から、ゴダイヴァ夫人のように、裸で木馬に乗っている。残念ながら木馬は自分では動けず、街を駆け抜けることはないので、隆がどれだけ待っても、裸の女性が馬に乗って迎えに来てくれることはなかった。